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[目] 宇都宮市保健所で収容している動物の情報 [犬][猫]

[ひらめき]みんなで作ったCMが特別賞に入選しました[カチンコ] [猫]みなさん応援ありがとうございました[ぴかぴか(新しい)]
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宮崎駿と宇都宮 ~少年時代の原風景~ [人気記事]


4月24日(火)

今日の宇都宮の最高気温は23℃まで上がり

汗ばむ陽気となりました。

お洗濯物もよく乾きましたね[晴れ]


近所の子どもたちも元気に外で遊んでいました。

4月も下旬になり学校にも慣れてきた頃でしょうか?


あのスタジオジブリのアニメ監督宮崎駿さんも

宇都宮の西小学校に通っていた時期があるんですよ[位置情報]


昨日ご紹介した築約80年の古民家を改装したギャラリー絆和さんに

アニメ監督の宮崎駿さんがお住まいだったことは

以前も少しご紹介しましたが

今から60年ほど前のお話になります。


宮崎さん一家はお父さんと伯父さんが

鹿沼市に中島飛行機の下請け工場を建設するため

1943年に文京区からまず宇都宮市の塙田に引越しをしてきています。


その工場は国鉄の鹿沼駅に近い川のそばにあり

現在、御殿山病院が建っている所には別荘があったそうです。


その後1944年に

松が峰の家(現在のギャラリー絆和さん)に転居してきました[家]


この家は総檜造りで庭には臥竜の松などの名木を配置し

降った雨が洋館の屋根から空池に流れ落ちる仕組みの

贅沢な造りとなっていたと本にも書かれています。


たぬき坂」のご紹介のときにも少し前述しましたが

1945年7月12日の宇都宮大空襲の時

焼夷弾を避けるため宮崎さん一家は東武線のガード下へ避難し

爆撃が激しくなってきたため母方の叔父さんの軽トラックに乗り

鹿沼へ避難したのだとか。


軽トラックで走る道の回りには焼夷弾が雨のように降っていて

荷台から進行方向の右の景色を兄の新さん、

左の景色を駿さんが眺めていたそうです。


この日は鹿沼も空襲を受けていたため

途中の熊倉家で朝を待ったそうです。


軽トラックで逃げる際

助けを求めてきたご近所の親子がいたそうですが

小さな車には既に宮崎さん一家でいっぱいで乗せてあげることができず

子供だった宮崎さんは大人たちに

「乗せてあげて」と言い出せなかったことを

ずっと後悔していたのだとか。


こういった経験から宮崎さんの作品の主人公たちは

勇気あるセリフをいうことのできる

人物設定になっているんだそうですよ。


助けを求めてきた親子については

のちに助かったことがわかっています。


さて終戦後、

鹿沼から再び宇都宮の松が峰の家へ戻った宮崎さん一家では

兄の新さんが小学校へ通い始めます[ひらめき]


本来は西小学校の学区でしたが空襲で西小が焼けてしまったため

1945年9月3日より西原小学校(当時は西原国民学校)で

2部授業になりました。


私がいつもお世話になっている西地区に詳しい方にお伺いしたところ

西小学校では青空教室となり

外で授業が行なわれていたそうです。


西小学区の皆さんは西原小学校の生徒たちから

邪魔者扱いされ悔しい思いをしたこともあったそうです。

なので一条中学校に入学し、また同じ学校になったら

仕返しをしようと考えていたこともあったそうですが

入学後は見事に仲良くなってしまったんですよと

笑って話してくださいました。


さて まだ小学生にはなっていない宮崎駿少年も

お兄さんについて行くことがあったそうです。

駿少年は通学路の途中にあった鍛冶屋さんのフイゴを使った

製鉄の作業を飽きずにずっと眺めていたのだそうですよ[目]


そして この風景が

『もののけ姫』のタタラ場のイメージの元になったといわれています[映画]


この鍛治屋さんが残っていたらいいなぁと思ったのですが

本にも今はもうないと書いてありましたし

近辺を歩いてみてもよくわからなかったので

またお世話になっている方にご相談したところ

鍛治屋さんがあったところを調べてくださいました。


本当にありがとうございました[ひらめき]


今は個人宅になっていて跡形はありません。

でも蓬莱大黒通り沿いに鍛治屋さんが2軒あったのだそうです。


きっと宮崎さんご兄弟は

もみじ通りを抜け蓬莱大黒通りを通って

西原小学校へ向かったのでしょう。


なんだか宮崎さんが少し身近に感じられます。


今日のようなお天気のいい日に

宮崎駿さんが子供の頃通ったであろう道を

のんびりお散歩するのもいいですね[かわいい]


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こちらは蓬莱大黒通りにある天満宮です。

天満宮(菅原神社)は宇都宮城の四方固めに配置されていて

こちらは西の天満宮です。

一向寺の斜め前にありますよ。


こちらにも寄ってみて下さいね[るんるん]




参考 『もののけ姫はこうして生まれた。』 著 浦谷年良

参考 『宮崎駿の原点 母と子の物語』  著 大泉実成

参考 宮崎 新さんからいただいたコメント より



4月24日 お会いできた猫さん 12匹

細い道を進む 白きじ猫さん

窓際で伸びる 黒猫さん

小屋で休む きじ孫くん

仲良く休憩 黒猫さんときじ猫さん

ちりとりに座る 黒白猫さん

窓際の 白猫さんと白きじ猫さん

すばやい 白茶猫さん

階段から見渡す 白茶子猫さん

久しぶりの ラララちゃん

ご飯を待つ ポチくん



松が峰 蓬莱大黒 もみじ猫[猫]





~今日のルルルくん~

只今しっぽのお手入れ中です[猫]


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コメント 67

宮崎 新

初めて読ませて頂きました。私は本文にて出て来る駿の兄の新です。
細かい事ですが、本文中に誤りがありましたので蛇足とは思いますが、
折角ですので、訂正させて下さい。
・航空機製作の会社は「叔父」ではなく「伯父」とです。
・御殿場病院は「別荘」のあった所で、終戦間際には申請一同が住んで
 居まして、終戦は此の地で迎えました。
・工場は国鉄の鹿沼駅に近い川のそばにあり、「帝国製麻」という会社
 に売ったと聞いています。
・宇都宮空襲は東京空襲と違って、鹿島灘から上陸し、宇都宮の東から
 西に向かいながらの空襲でした。
 ですから、私達が鹿沼に向けて軽トラで逃げる方向に空襲していた訳 です。
 宇都宮のついでに西に位置している鹿沼を爆撃したのです。
 そのせいで、軽トラの走る道の回りには焼夷弾が雨の様に降っていま
 した。
 私は荷台から進行方向の右の景色を眺めていたのですが、駿は左側の
 同じ様な景色を眺めていたのです。
・宇都宮空襲から軽トラで脱出する時に「助けて下さい」と声をかけて 来たのは、ご近所の田口さんのお父さんで、抱いていたのは末っ子の
 礼子ちゃんでした。
・西小学校が空襲で焼けてしまい、西原小学校へ二部授業に通ったのは
 どうやら低学年だけの様ですね。
 その点に気がつくと、確かに高学年の生徒は見かけた覚えがありませ ん。
大した間違いではありませんが、知っていて間違いを受け入れるのも気がとがめまして、此のメールになりました。
尚、松ヶ峰の家は、私が小学校に入学した時から五年生が終わるまでの
子供時代を過ごした思い出の大きい家です。
それにまして、思い出の大きいのは、宇都宮空襲で鹿沼の別荘に移り住んだ、約半年で忘れられませんね。
駿は未だ三歳半から四才までの幼児期ですから覚えていないでしょうが

by 宮崎 新 (2014-02-19 15:49) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
そして、ご訂正ありがとうございます。
本を参考に書かせていただきましたが、ちょこちょこ誤っていたようですね。失礼いたしました。
貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございます。
by ミャー (2014-02-19 22:56) 

宮崎 新

私のコメントによって訂正されているのを知りませんでした。
しかし、本文にある「伯父が運転して来た軽トラック・・」は
母方の叔父のです。
此の叔父も8年前に亡くなりました。
両親の兄弟も、その叔父の連れ合いを残して全滅です。
もう、歴史になりましたね。
駿も長編アニメから撤退を宣言しましたが、悪あがきしないで良かったと思っています。
此れからは、ジブリ美術館を中心に短編アニメに専念する様です。
今年の3月18日の亡父の命日には、私の弟の駿、裕、至朗の三人で
墓参りに言ったそうです。
私が在京している時には、全員を引き連れて墓参していましたが、
墓参は暫く絶えていたので嬉しく思いました。
感想が遅くなり申し訳ありませんでした。
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-04-08 14:25) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
宇都宮は今桜が咲き誇っています。小学校の桜も綺麗ですよ。
駿監督の長編アニメ引退は残念ではありますが短編楽しみです。
3月18日は彼岸の入りで父の初彼岸だったこともあり、私もお墓参りに行きました。福寿草が咲き、春一番が吹き、お天気雨も降り…ご先祖様が喜び微笑んでくれているような春の到来が感じられる日でした。
軽トラックの「叔父」様も訂正させていただきますね。
ご訂正、ご感想、ありがとうございます。


by ミャー (2014-04-09 00:16) 

宮崎 新

宇都宮市立西小学校
私が入学したのは、昭和20年4月ですから、当時は「西国民学校」と
言われ、戦後直ぐに、西小学校に変更されたのです。
戦災前の学校は、慣れないせいでもあり、暗く、大きなイメージです。
終戦後は本文にもあります様に、西原小学校と二部授業になりましたが
後々、分かったのですが、低学年だけだった様ですね。
高学年は校庭にバラックを建てて授業をしたらしいのです。
新築の校舎に移ったのは昭和22年だったと思いますが、不確かです。
木造の校舎をピカピカに磨き上げました。
老化は90cmずつ、担当を決めて磨いたものです。
その為か、県内各地から参観者が絶えず、私達も慣れたものでした。
校庭の桜の大木は戦災を生き残り、花を咲かせていましたね。
私が小学校6年生、駿が4年生、三男の裕が1年生の4月に、東京杉並の
小学校に転校したのです。
宇都宮は何度か訪ねましたが、駿をはじめ弟達を連れて、住んでいた
松が峰の家の門前にも行ったことがあります。
お隣の熊倉さんともお会いして、お話ししました。
駿は空襲時の思い出を、あちこちで話している様ですが、空襲下、家を
逃げ出して、避難した東武線のガード下にも連れて行きましたが、駿は
分からない様でした。
まあ、駿は4才半でしたから仕方がありませんね。
私達兄弟にとっては、幼児期の思い出は「杉並区永福」の家になると思います。
私にとっては、宇都宮空襲を逃れて鹿沼に転居し、その年一杯の鹿沼の
生活が忘れられないものになっています。
その話は機会がありましたら、させて下さい。
失礼しました
宮崎 新





by 宮崎 新 (2014-04-09 18:09) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。

宇都宮市内の小学校では今日、入学式が行われたようです。
桜の花びらが舞う中、ピッカピカの1年生の笑顔が学校中にあふれていたことでしょう。たくさん楽しい思い出を作ってもらいたいですね。

松が峰のお宅は現在ギャラリーとなっています。
オーナーさんはとても素敵な方です。

たくさんの思い出をお話いただきありがとうございます。
by ミャー (2014-04-11 00:13) 

宮崎 新

宇都宮のハナワダと言う所に転居したのは、昭和18年の末だったと思います。と言うのは両親が既に物故していますので、正確な日付は分からなくなっているのです。そのときの私は5才半、駿は3才間近ですね。
駿は物心ついてから、私の後をついて回りまして、丁度、トトロに出て来る「さつきとメイ」の関係でした。ハナワダに引っ越した頃の駿は、
兵隊に憧れていて、自分の事を「テーテーさん」と呼んでいました。
口癖は「テテアーボー」というもので、此れはテテ(僕と)アーボー(遊ぼう)と言う意味です。
何処へ行くのにも付いて来て、私としては辟易していたのです。
父は駿が生まれた時に、軍人にしようと考え、当時の陸軍中将の名前を
貰って「駿」と名付けたと言ってました。
ところが、此れは見込み違いも良いとこで、駿は後に分かります様に、
体育会系ではなく、体も弱く、運動は苦手でしたね。
ハナワダの家のイメージは「暗くて大きい」と言うもので、にかへの階段が二ヵ所もあったのですが、裏の階段は特に暗くて恐ろしく感じたのですが、駿は怖がって一人ではその階段は使えませんでした。
そのご、ハナワダから松が峰の家に越したのですが、ハナワダには半年
チョットしか住みませんでした。
松が峰に越したのが、昭和19年の秋頃ですから、昭和25年の4月に東京
へ越すまで、5年半ほどが松が峰になります。
もっとも、宇都宮の大空襲で鹿沼に逃げて、半年近く住みましたから、
松が峰での実質の期間は5年ですね。
駿は昭和22年に宇都宮市立西小学校へ入学した訳です。
そのとき私は3年生で、3年生と1年生の関係は、小・中・高・大学まで
続いたのです。
常に2学年上に私が居ましたから、おとなしい駿もいじめられる事はありませんでした。
駿のしたの弟とその下の弟との間隔は3年ですから、3年生と1年生の関係は私と駿の間だけでした。
今回はこの辺で。
宮崎 新

by 宮崎 新 (2014-04-16 13:20) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
お話を伺い、塙田の家の裏の階段を想像すると〝まっくろくろすけ”が出てきそうです。
「テテアーボー」といっていた3歳頃の駿監督はメイちゃんみたいにきっと可愛らしかったことでしょう。
いつもお兄さんに見守られて幸せですね。
宇都宮でももう少しするとサツキの花が綺麗に咲く季節になります。
サツキは宇都宮市の花です。
あっという間に風薫る5月がやってきますね。
by ミャー (2014-04-18 00:21) 

宮崎 新

松が峰の家は成金が金にあかして造ったらしく、建物も庭も素晴らしいものだったらしいのです。
子供だった私達には、その良さは分かりませんでしたが、唯一、庭の石造りの空池に噴水が二ヵ所設置されていて、水道の栓をひねると噴水が出現するのでした。
庭には岩が沢山使って庭が造られていて、その回りには銘木と言われる
木々が植えられていました。
中でも、私たちが好きだったのはサツキで、四月から五月にかけて咲き競っていましたね。
それと、満天星も丸く刈られて、庭のあちこちに植えられていました。
家の南側に植えられていたゴムの木は私達には格好な木登りの対象になり、最後には枯らしてしまい、母に怒られました。
昭和22年頃に母が脊椎カリエスを発症し、入退院を繰り返していましたが、此れは、そのまま、トトロに出て来ています。
担架で運ばれて入院する母を見て、弟達は涙ぐんだのですが、私は兄として「男らしく」と意気込んで叱りつけたものです。
母の病は足掛け11年も続き、とこを離れる事が出来たのは昭和32年の
私が大学に入学する頃でした。
結核性の此の病気は、昔だったら治らない病気でしたが、戦後、アメリカから持ち込まれた「ストレプトマイシン」とか「パス」のお陰で完治出来たのです。
正岡子規も同じ病でしたからか、母は良く正岡子規の事を話してくれましたね。
母親が病気で寝たきりと言うのは家を暗くしますね。
お手伝いさんは常に一人か二人居たのですが、三男は良くおんぶしてもらっていました。
昭和21年に四男が誕生した日の事は良く覚えています。
そろそろ生まれると言うので、お産婆さんが家に詰めていたのです。
私と駿は昼食の真っ最中だったのですが、奥の部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえ、二人で「生まれた」と箸を投げ出したのです。
風呂場の窓からお産婆さんが赤ちゃんを抱いて来て、お湯に入れていた
のを見たら「男の子」で、父親ががっかりするだろうと二人で話しましたね。
続きは又 宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-04-19 00:11) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
松が峰のお宅は、私のような素人が見ても建物もお庭もとても立派だなと思っていましたが、2つも噴水があったなんて本当に豪華ですね。
兄弟で仲良くゴムの木の木登りを楽しんでいた光景が目に浮かびます。
枯れてしまったとしてもまだ切り株はあるのかしら…
今度機会があったらオーナーさんに聞いてみたいと思います。
お母様のご病気は長く患われていたんですね。お母様も大変だったと思いますがご家族の皆様もご苦労があったことでしょう。
それにしても、あのお宅で1つの命が誕生…
感動です!






by ミャー (2014-04-21 23:39) 

宮崎 新

私達は男四人兄弟です。
私と駿は今の墨田区石原で生を受け、三男の裕は宇都宮に引っ越すまで住んだ、今の文京区本駒込で、そして、四男の至朗は昭和21年に宇都宮の松が峰で生まれました。
父親は女児を期待し、三男の生まれる前から「女の子の着物」を用意していたのですが、四男の誕生で諦めたようです。
三男の裕は昭和25年4月に、私と駿と同じ、宇都宮市立西小学校へ入学しましたが、2週間後には東京に転居しましたから、宇都宮での記憶は学校だけでなく、生活自体に全く記憶が無いようです。
まして、四男の至朗には宇都宮は存在していません。
昭和25年4月23日に、杉並区立大宮小学校に転入した訳ですが、私が6年生、駿が4年生、裕が1年生だったのです。
戦争中に宇都宮に転居した時には「東京から来た」と言うだけでいじめられましたし、鹿沼に疎開した時も「都会から来た」と言うだけでいじめに会いました。
ですから、東京へ戻れば「田舎から来た」と言うだけで差別されたり、いじめに会いますから、かなり緊張していました。
私は弟も居ますから、負ける訳にはいきませんから、神経を尖らせて、
喧嘩も進んで引き受けていました。
幸い、駿はおとなしいのでいじめられる事は無かったようです。
しかし、中学に入る頃からは、都会とか田舎とか言う差別は無くなり、
やっと、落ち着いた学校生活が出来る様になりましたね。
こんな経験から、転校生がいじめられるのが嫌で、庇ってばかリ居ましたね。
駿は絵ばかり書いている子でしたから、諍いを起こす様な事は無かったようです。
昭和25年の運動会の日に事件が起こりました。
この日、二階の教室に「駿と友人」の二人が、運動会に出ずに窓辺に座っているのを見て「どうした?」と聞きましたら、何やら応えていましたが気にもとめませんでした。
そうしたら、二階からその友人が落ちてしまったのです。
私は「駿が落としたのでは」と不安になりましたが、大声で聞きましたら、手すりが壊れての落下で、単なるアクシデントだったのです。
その頃の子供の大方は「丸坊主」でしたが、私達兄弟は髪を伸ばしていました。
その落ちた子も丸坊主でしたが、退院後、頭の傷を隠す意味でか、髪を伸ばしたそうですが、駿の話では、退院してからは成績が急に良くなったと言ってました。
陰では「頭を打って」切れていた線がつながったのでは、なんて悪口も言ってましたね。
いま、この大宮小学校は生徒数が激減し、杉並区で奨めている統廃校の対象にされているそうです。
今日は此処までにします


by 宮崎 新 (2014-04-22 11:30) 

宮崎 新

宇都宮時代のエピソード
駿は小さい頃から絵を描くのが好きでした。
手始めは、飛行機や軍艦、戦車ですね。
ところが、駿が小学校の低学年になった頃に、私との差が出来ました。
先ず、飛行機を真横からスケッチした時に、翼の描き方なのです。
普通、私達は、翼を右上にトンボの羽の様に描いていましたが、ある時を境に、駿の翼は「実際に真横から見た翼」の形になりました。
此の放物線が難しくて、私には描けませんでした。
私が五年生、駿が三年生の時の夏休みの宿題で絵を描いたのです。
二階の廊下から、庭を描いたのですが、アングルは全く二人とも同じでしたが、彩色する段になって差が歴然としたのです。
私も絵には結構自信を持っていたのですが、どう見ても差がありました
そして、二学期が始まり、全校生徒の宿題の絵が学校の昇降口に張り出されたのです。
先生が二人で評価しているのにくっついて見ていたのですが、駿の絵の前に来たら「上手すぎる」と笑って通り過ぎたのです。
家の人に手伝ってもらったと思ったのでしょうね。
そして、我ながら下手と思われた私の絵に「賞」の札が貼られたのです
昔の学校では、先生に、それも知らない先生に向かって「弟を弁護」するなんて考えも及びませんでしたから黙っていたのです。
未だ未だ、戦争中の先生と生徒の関係が濃厚に残っていまして、先生は恐い存在だったのです。
今では、此のエピソードを知っているのは私だけでしょうね。
心残りではありますが、仕方が無かったとも言えます。
宮崎 新




by 宮崎 新 (2014-04-22 13:47) 

宮崎 新

エピソード 2
宇都宮の松が峰に住んだのは、昭和20年から昭和25年春までです。
終戦後は物資も足りず、食料も不足していましたが、我が家は申し訳ないとは思いますが、ヤミで購入して、不足感はありませんでした。
この、ヤミ物資での生活に対し、後年、駿は罪悪感を感じていた様で、
あちこちに書いていますね。
昭和24年のクリスマスに父親が直径15cmくらいのデコレーションケーキを買って来てくれた時の事です。
初めて見るケーキは、バタークリームで造られたバラの花が大小散りばめられたケーキで、その美味しさは当時の子供としては信じられないくらい美味でした。
我が家の四人兄弟は、父親のお土産は、毎回、四等分していました。
そして、この、クリスマスのデコレーションケーキの時の事です、勿論、四等分しまして、それぞれぱくついたのです。
ところが、四男の至朗が私に「兄さん バラの花あげようか」と言うのですから驚きました。
勿論、不思議な感じはしましたが、喜んでもらって食べたのです。
そうしましたら、ケチな三男の裕までが「兄さんあげるよ」と言うのではありませんか。
何故、こんなにおいしいケーキの、それも、一番楽しみなバラの花を
くれるのか不思議に思いながら、喜んでもらいました。
駿を見ると、目を白黒してケーキを食べきっていました。
何の事は無い、下の二人の弟達は、バラの花を大切にとっておいて、先にケーキのボディの部分を食べたのですが、お腹が一杯になってしまい、大切にとっておいたバラの花が見るのも嫌になったのです。
昭和24年のクリスマスと家は、私は11才半、駿は8才間近、裕は5才間近、至朗は3才半ですから、下、二人にとっては15cmのケーキの四分の一は、かなりきつい量だったのです。
大切にとっておいたバラの花を恩着せがましく私にくれたのは、後になって分かってから笑えましたね。
最近まで、この話をしてからかったものです。
宮崎 新












by 宮崎 新 (2014-04-24 15:26) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
宮崎さんのお父様とは逆に、うちの父は息子が欲しかったようですが、残念なことに我が家は姉妹になってしまいました。なので妹は男の子っぽく扱われていましたよ。
私も小学生の頃転校したことがあり、冷やかされたりいじめられたりしたことがあります。隣の市から隣の市へ引越しただけなのに「都会から来た」と同じように言われました。なのでそれ以来、転校生や弱い立場の子にはできるだけ優しくしようと子供ながらに思ったものです。
目の前で2階からお友達が落ちてしまったなんてびっくりでしたね。
頭を打って成績が良くなるとは…。更にびっくりです!
それにしても通っていた学校がなくなってしまうのは寂しいものですね。
私は絵心がなく上手に描ける方がとてもうらやましいです。
夏休みに宿題でお二人が描かれた絵を見てみたかったです。
4兄弟のクリスマスケーキのバラの花のエピソード。可愛らしいですね。
また松が峰のお宅に行った際に思い浮かべてしまうと思います(^.^)
by ミャー (2014-04-25 00:32) 

宮崎 新

エピソード 3
ミャーさんは何人姉妹なのでしょうか?
私達は男四人兄弟でした。
私はそれに反し、女三人姉妹を得ました。
駿は男二人、裕は男女二人、至朗も男女二人とした二人はバランス良く子を得ました。
男の子だけの家は殺伐としていましたね。まして、母親が病で床に着いているのですから、女性と言えば女中だけでした。
その女中を対象にしたいたずらを思い出します。
当時、どうゆう訳か「落とし穴」作りが子供の間で流行っていたのです。私達兄弟と言っても私と駿ですが、対象は女中に向けられました。
家の線路際の南の端に物置小屋がありました。物置への出入りは専ら女中でしたから、その入り口に直径40cmくらいで深さが60cm程度の落とし穴を掘ったのです。普通の落とし穴は細い竹を渡し、土をかけて造るのですが、私達は穴の上に炭俵の筵を敷いたのです。当時は泥濘には
炭俵を敷くのが習慣でしたから、そこに炭俵が強いてあったも違和感は無い訳で、私達の知恵のなすものでした。
ものの見事に女中は落ちたらしく、と言うのは、落ちる所を見た訳ではないのです。女中が母親に訴えて、その結果、もの凄く怒られましたから、落ちたのが分かったのです。怒られながら、継いでてしまう笑みを
おさえるのに苦労しましたね。
近所に、私の一年上の松岡のトッちゃんと言う男の子が居まして、ある時に「大きな落とし穴」を造っているのに出会いました。直径は1m程で、深さは1m以上もあり、しかも、穴の中には水を入れてある、本格的なというか、子供心に驚いた程の規模のものでした。彼は叱られた近所の英語塾の先生を落とすのだと夕暮れまで頑張っていました。しかし、どうやって英語の先生をその落とし穴に誘導するのか不思議に感じたのを覚えています。結果は知りませんが、その後、落とし穴は埋め戻されていましたから、多分、家の方に怒られて埋めたのでしょうね。
松が峰の家は建材に凝った作りだったらしく、良く親に言われたのは、
敷居は「楓」、障子の腰板は「柿」、その他は全て「檜」と聞いていました。私達子供にはその価値は分かりませんでしたから、よく傷つけて叱られました。当時の子供は「切り出しナイフ」と「肥後の守」というナイフや、版画を彫る「彫刻刀」を持っていました。それを手裏剣の様に投げて、柱に突き刺すのです。当然、柱はキズだらけになりましたから叱られました。駿はクレヨンで壁に絵や文字を書くのが好きでした。
軍艦や飛行機、戦車の絵でしたが、文字で思い出すのは、壁に大きく、
「おとさん おかさん おにさん おとと」とお吠えた手のひらが名で書き付けたのです。「おとうさん」ではなく「おとさん」と言うのがおかしくてよく覚えています。6畳の洋間が子供部屋でしたが、今考えてもひど過ぎる程の散らかし様で、壁はいたずらが気でいっぱいでした。
母は奥の座敷で床に着いているか、病院に居ましたから、女中の注意なんか何とも感じませんでしたね。我が子を持ってみて、自分に似ている片付け下手を見ると「遺伝だな」と思う事があります。
今回はこの程度です
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-04-26 14:07) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
うちは2人姉妹です。家族の中で父は男一人だったので雄のワンちゃんを飼ったとき仲間ができたと喜んでいました。
落とし穴は落ちたら痛いでしょうねぇ。掘ったことも落ちたこともありませんが、子供の頃飼っていたウサちゃんがお庭に小さな穴を掘ってかわいらしく隠れていたのを思い出します。
やっぱり男の子は元気でパワフル&豪快な遊びをするんですね。
檜ではなくとも柱にキズをつけたり落書きをしたらきっと叱られてしまうことでしょう。
松が峰のお宅の洋間は、玄関入口のお部屋しか拝見したことはありませんが子供部屋だった洋間のお部屋も拝見してみたいものです。
まだ当時のキズや落書きがあるかもしれませんね。
私が子供の頃に住んでいた家はもうなくなってしまいました。
思い出の家が残っているなんてうらやましいです。

by ミャー (2014-04-28 00:43) 

宮崎 新

駿と犬
宇都宮時代には動物を飼う機会は余りありませんでしたね。
戦後の物の無い時代ですから、弟達が動物と触れ合う事は少なく、我家ではニワトリは他家と同じく玉子の為に飼っていました。その中で、私が母にせがんでウサギを飼った事がありました。面倒を見ると言う約束で、餌やりと小屋の掃除ですが、この掃除には参りました。人参の様な匂いが強烈で、私の人参嫌いは此処から始まったのです。今でも苦手な
野菜の一つですが、最近は人参どころではない強烈な野菜に接し、人参なんて可愛らしいと感じる様になっています。その野菜とは、コリアンダーあるいは香菜、あるいはパクチーです。此れは、他人が側で食べていても逃げ出したくなります。宇都宮と一時の鹿沼住まいで、夢中なった昆虫採集で、カメムシを掴みますと、手は洗っても匂いは落ちませんが、その匂いがパクチーと同じなのです。
駿と犬とのかかわり合いは、東京の杉並に転居して、雑種の中型犬飼ってからですね。名前は「チク」と言い、駿は可愛がっていました。最近まで所沢の家で飼ってた犬の名前も「チク」だったと聞いています。
昆虫採集は駿と言うよりは、専ら私が夢中になった遊びでした。
面白いのは、昆虫採集の経験の無い友人達は「パクチー」を平気で食べる事です。カメムシを手づかみしたした経験が無いと、あの匂いも平気なのでしょうね。昆虫採集の話は色々とあるのですが、この話は駿と関係なさそうなので、やめておきましょう。
宮崎 新 
by 宮崎 新 (2014-04-28 13:58) 

宮崎 新

戦後の松が峰
宇都宮の大空襲で出現したのが「焼け跡」でした。竹刀の至る所にありましたが、特に、我が家の西にあった大きな焼け跡は思いでいっぱいです。焼け跡には色々な物が落ちていました。直ぐに無くなってしまいましたが、当初はゴロゴロしていたのが「焼夷弾の空」でした。片方の蓋は無くなっている六角形か八角形の鉄製の筒で、したの方に、押すと引っ込む直径数ミリのボダンが着いていましたね。使い道も無いので、子供としては興味を失いましたが、その後の屑鉄集めで消えたのでしょう。碁石も焼けた家の数だけありましたし、河原の焼けたかけらは、投げるのに格好な大きさでした。焼け跡の南隅に「白蓮」の大木とか、梅の木があり、東隅には矢竹の竹やぶがあり、細工に手頃なので、弓矢とか竹とんぼを良く造りました。白蓮の木は白い大きな花を沢山咲かせましたので、木に登り遊び飽きると、花の枝を切って持ち帰り、母を喜ばせました。梅も六月になると青梅の実をつけますが、沢山採ってポケットに入れて食べていました。防空壕の跡も子供にとっては楽しい遊び場に変えていました。今考えると、この広い焼け跡は何か権利の問題あったのでしょうね、宇都宮を離れる昭和25年4月時にも残っていました。
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-04-28 14:50) 

宮崎 新

知られたエピソード
松が峰な越した頃の駿は4才にはなっていなかったと思います。
母も元気で小林ひさえさんと言う同郷のお手伝いさんと和気あいあいと
生活していた頃の事です。
駿がトイレに入ると出て来ないのです。
30分以上でしょうね。
そして、実況放送を始めるのです。
殆どが「火事」の現場中継で、他のは覚えていません。
「火事です 火事です」から始まり、消防自動車が駆けつけて来る情景を中継放送するのです。
それはそれは大きな声で長々と続けるのです。
それを聞くと、お手伝いさんは「もうすぐ泣きますよ」と言って母とニヤニヤしていましたね。
駿はトイレの紙を有るだけ使ってしまい、それが無くなると「かみー」と連呼するのです。
その声に反応しないと、ワーワーと泣き出すのです。
トイレットペーパーなんて無い時代で、他家では新聞紙を使っていた頃に、我が家には父の会社で使っていた設計用の薄い紙を使っていたのですが、駿は有るだけの紙を全て使い尽くしてしまうのです。
しかし、実況中継は炎の色や消防車の色等、色彩豊かなものでしたね。
駿は潔癖性とも違うのでしょうが、新しい服を切るのを嫌がりまして、出かける時等は、着替えるのが一仕事で大声で泣いて抵抗していました
当時の世間の生活は、衣料事情も最悪で、クラスメイトは一年中同じものを着ていましたから、「名前と顔と服」が一致して記憶されています
私達は母が古いセーターを解いて、大きさに合わせたセーターを編んでくれていまして、良く、知らない婦人から「ちょっと見せて」と、セーターの裏を見ていましたね。
駿は後年、ものを記憶するのに「絵」として記憶している節が有り、例えばアニメ作品の企画段階で各国に下見に行っていましたが、「天空の城ラピュタ」の下見にイギリスのウェールズに行って帰り、場面場面のイメージボードを数百枚描いて自分の制作室の壁一面に貼っていました
その場面は全て駿の頭に記憶されたもので、写真でも撮って来たのかなと思って聞きましたら、全て、情景が記憶されたものと聞き驚いた事が有ります。
続きは又
宮崎 新









by 宮崎 新 (2014-04-29 20:50) 

宮崎 新

庭のはなれ
松が峰の家は本格的な日本建築でしたが、庭の東南角に洋館が建てられていました。家の方からは岩の塊の様に偽装されていて、屋根は南に向けて傾斜していて、降った雨がまとまって和風庭園の東南角に設えられた滝に流れ、空池に流れ落ちる様に設計されていました。
洋館のハナレは畳12枚分の広さの一室で、本来は畳が敷かれていましたが、戦災で不足していた畳を必要とされていた方に差し上げてしまい、
この洋館が子供の遊び部屋として使われていた頃は板敷きになっていました。板をはがすと地下室があったのですが、何もおいてなく薄暗くて
気持ちのよいものではなく、子供としては使い道も無くコオロギの巣と化していました。泥をこねて団子にして、天井へぶつける遊びが流行り
薄クリーム色の壁や天井は泥でまだら模様にしてしまいました。女中の言いつけで母にバレてしまい、勿論、こっぴどく叱られました。
この頃の一般家庭はニワトリを飼うのが当たり前で、自家で使う玉子の需要を賄っていました。我が家も当初は鳥小屋を作って飼っていましたが、その内に、放し飼いになってしまい、雌鳥が玉子を庭のあちこちで生みまして、それらを収集するのは私達兄弟の役目になっていました。
有る一羽が、ハナレに添う様に立てられている大きな岩のてっぺんに生む癖が付き、岩をよじ上って玉子を採るのは私の役目でした。此の1羽
は野性味豊かな鶏でして、庭のあちらこちらに生む場所を変えていたのですが、有る時期から生む場所が分からなくなってしまったのです。
一ヶ月以上も「産み場と言うか産卵場所」が分からなくなった事が有りました。そうしましたら、お隣の植田さん奥さんが「お宅のトリでは」と言って来られ、「うちの物置で生んでいるようですよ」と言って来られたのです。お手伝いさんが実に行きましたら、物置の中に玉子が山盛りに生んであり、下の方は痛んでいたそうですが、それでも食べられる玉子が20個ほど収監出来たのです。こんな鳥達も一羽ずつ食用にされてしまい、私は鳥肉が食べられなくて困りました。
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-04-30 11:24) 

宮崎 新

西原小学校
戦災で消失した母校「西国民学校」が再建されるまで、西原小学校で二部授業が実施されていましたが、駿の小学校入学は昭和22年4月で、記録によると「西小学校の再建」も昭和22年になっています。はたして、
駿が西原小学校に通ったか定かではなく、従って、通学路にあった鍛冶屋を実際に駿が見たのか分かりませんでしたが、今回、色々と思い出しているうちに、駿が西原小学校に通っていた事を思い出したのです。
西原小の生徒達の私達に対する敵愾心(?)は今考えても納得いかない程の凄さで、いじめなんて生易してものでは無く、校内でも郊外でも会えば殴る蹴るが当たり前で、先生に直訴してもどういう訳か全く取り合ってくれませんでした。従って、登下校は複数又は団体で行っていました
有るとき、駿の教室の方に行った時に、二人の男の子が組み合っていて
駿が下敷きになっていたのです。そこで、すっ飛んで行って、上の男の子を突き飛ばしたのです。そうしましたら、駿に食って掛かられまして「二人でふざけていたのだ」と言われてしまいました。この事を思い出して、駿が間違いなく西原小学校に通って、二軒の鍛冶屋を見ていた事が確認されましたね。
この二部授業は低学年の生徒だけだったらしく、高学年の生徒達は校庭での青空教室だったとは最近知った話です。
西原小の生徒が西小の生徒をいじめたのは、今考えれば、待ちの中心にあった西小学校に対するコンプレックスなのでしょうね。
田舎の子が町の子に対するコンプレックスは想像以上のものが有る様で
宇都宮の戦災の後、昭和20年8月〜20年末までの鹿沼での生活でも体験しました。鹿沼の小学生にとっては宇都宮は大都会だったのでしょうね
「町から来た」とか「町の言葉だ」といちゃもんを付けられましたね。
駿は鹿沼時代には4才半から5才近くまでなので、学校とは円が無くて、
此の様にいじめに会わなくて済みました。
この裏返しが、東京に帰ってから「田舎のやつ」といじめられたりからかわれるのが嫌で警戒したものです。天候当時は直ぐに喧嘩をふっかける奴というレッテルを貼られてしまいましたが、これらは、鹿沼での体験の裏返しなのです。東京に天候当時は、私が6年生。駿が4年生、裕が1年生でしたから、常に、弟達がいじめられていないか木を配っていました。さいわい、東京の子供達は「殴り合い」にまで行く事が殆ど無く、気を張っていた私は拍子抜けしたもです。こんな気の張りは翌年に中学校に入学して消えました。こんな経験からか、私は転校生を庇う癖がついてしまい、此れは、高校まで続きました。今でも、仲良く付合っている友人には転校生が多いので笑えます。
宮崎 新

by 宮崎 新 (2014-04-30 12:06) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
カメムシは臭いと聞きますがパクチーの匂いでしたか。私は虫が苦手なのですが近所の子や妹は夏休みの早朝クワガタ採集をしてましたよ。
愛犬の「チク」ちゃんは2代目がいたんですね。思い出のワンちゃんだったのですね。
大空襲の写真はみたことはありますが、昭和25年頃まで焼け跡が残っていたとは…。戦後の写真をみると心が痛みます。
「かみー」の連呼と実況中継、聞いてみたかったです。その頃から既に情景描写力が凄かったんですね。さすがです。
中に入ったことはありませんがお庭の南東の離れは今もありますよ。
お庭で鶏が放し飼いされていたんですね。卵の収集は楽しそうですが、家でさばいて鳥を食べた世代は鳥肉が食べられなくなった方が多いようです。父も鳥肉は苦手でした。
戦後は子供たちもかなりのストレスを抱えていたことでしょう。殴る蹴るのいじめは残念ですが、自らを守るための行動で心の叫びだったのかもしれませんね。平和が一番です。

by ミャー (2014-05-01 00:00) 

宮崎 新

ミャーさんとおっしゃるのですね。駿とは関係ない話ですが、我が家は
ある時から突然「猫派」に変身してしまいました。長女が同級生達と拾った子猫4匹のうち、貰い手の無い最後の一匹を預かってしまい、その可愛らしさに、猫嫌いだった家内が猫派に転身したのです。
その後は、猫ばかり飼い続け、近所の野良猫の夫婦が生んだ6匹までも引き受けてしまい、近所の方達とお金を出し合って「去勢と避妊」の手術をしました。
そのノラの夫婦は亭主が「ギアタ」奥さんが「ミャー」だったのです。
最初に飼った子猫が利口な子で、お手をしたりして可愛かったのが飼い始めるきっかけなのですね。
その子の名前は「ミュー」でした。ノラ夫婦の生んだ6匹は、当時、家内がフランスに凝っていたのでフランス名ばかりでした。
その後、イタリア人のホームステイを引き受けたときの猫の名はイタリア名ばかリでした。
近所では猫好きと評判になり、家の入り口に箱入りの子猫を置いて行かれたり、小学生達が「おばチャーン 猫拾って来たよー」と三匹も連れて来たりで、1番多い時で14匹にもなってしまい、段ボールで猫缶を買いに行ったり、おしっこシートを大量に買い込んだり良い思い出です。
今は海外に住んでいますから、猫達との縁は切れています。
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-05-04 20:20) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
猫派嬉しいです。14匹は凄いですね!
我が家は保護した4匹の猫たちと賑やかな生活を送っていますが、14匹ともなるとご飯時は大騒ぎだったことでしょう。
一度猫たちと一緒に生活するとかわいくて虜になってしまう方も多いですよね。猫たちも大切な家族です。
ミャーちゃんと同じ名前で光栄です♪
実家では以前茶トラの「ミュウ」という猫を飼っていました。
人なつっこくて愛くるしい世話好きな雄猫でした。
今日、日本画展を観に松が峰のお宅(現在はギャラリー)に行ってきました。
お庭には綺麗なサツキが咲いていましたよ。
by ミャー (2014-05-07 00:53) 

宮崎 新

駿の遊び相手とも軽飛行機
私と違って駿はおとなしくて女の子と遊んでいました。
例の空襲時に「助けて下さい」と声をかけた田口家のお嬢さん達とです
長女は国子さんと言って私より5才も年上で、次女は京子さんと言って
駿と同じ年でした。末の子は礼子チャンと言って、未だ、赤ちゃんでしたから、専ら京子チャンと遊んでいましたね。通りから路地は突き当たりを左に折れる形になっていて、通りの入り口の左には「藤さん」と言う家が有り、私より一年上の幸江さんと一年舌のタカシ君が居ましたが
お母さんが九州の方で、一銭を「イッシェン」と言うのが可笑しくて、
つい口に出してしまい怒られました。このオバさんとは仇敵の様なものでして、しょっちゅう怒られていました。この藤家の隣が田口家でして
丁度角に当たっていました、その奥は「熊倉家」と言って、生田流のお琴の先生をされていて、しょっちゅう、六段とかサクラのメロディが聞こえていまして、今でも覚えているくらいです。お兄さんは戦地ヘ行っていましたが、お姉さんはかなり年上の方で「スミチャン」と呼ばれていましたが、末の娘さんは「英子さん」と言って、私より4才上で、私が一年生のときは五年生でした。英子さんは綺麗な方で、あこがれていましたね。熊倉家の真ん前が我が家で、その隣は「植田家」と言って、
おとうさんは当時の宇都宮中学、後の宇都宮高校の物理の先生をされていて、よく家の境の木に上って騒いでいると怒鳴られました。植田家は
娘三人に末が男の子で「哲郎さん」と言い、私より6才上で、小学一年の時には宇都宮中学生でした。長女は礼子さん、次女は絢子さん、三女は節子さんと言い、路地で遊んでいる時に挨拶をしますと、何時も、丁寧に返事をしてくれて嬉しかったものです。
駿は女の子とままごとばかりしていまして、花を摘んだり、絵の具で色水を作ったりして遊んでいました。その頃(戦後)の私はメンコとビー玉
に凝っていまして、上級生から召し上げて追いかけられた覚えも有ります。しかし、ベーゴマだけは全くの不得手で、いくら、磨いて強そうに作ったコマも簡単に撮られてしまっていました。
凧は紙芝居やのおじさんから買う事も有りましたが、殆どは手作りで、
大きな凧を作って、唸りを出す工夫をしたりしたものです。
戦後流行ったのが「模型飛行機作り」で、小学校の近所にお店が有り、
そこのオジさんは体が不自由でしたが、名人と言われていました。
私達も竹ヒゴを買ってローソクで曲げて翼を作ったりして、模型飛行機を作りましたが、駿は器用で竹ヒゴを曲げるのが上手かったです。
後年、中学一年の時に駿が作ったグライダーは翼の長さが1m程も有る大きなものでしたが、校庭で飛ばしましたら、安定して真っすぐに飛び
兄としても誇らしく思う程の出来でした。
このグラィダーを学校まで運ぶのには自転車では運べませんから、歩いて運んだのですが、それだけの期待と自信はあったのでしょうね。
このグライダー作りの基は宇都宮での模型飛行機作りにあった事は間違い有りません。
宇都宮城のあった後の「御本丸」と言う所で「宇都宮復興祭」と言うのが昭和23年に行われ、櫓を中心に幾重もの盆踊りの輪が出来て、大変な賑わいを見せたものです。母は既に病のとこにありましたから、私達は
入れ替わりは派に報告したものです。私は一人で出かけましたが、駿は
女中と一緒に行ってました。とにかく、もの凄い人出で、家々は皆、提灯をつけて祝ったのです。その時に、御本丸の脇にあったジャングルジムが見物人の重みで倒壊し怪我人が出たりしました。そのとき、チョット駿は大丈夫だったかと気にしましたが、直ぐに踊りの見物に熱中したのです。
by 宮崎 新 (2014-05-07 05:11) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
ご近所さんには同世代のお子さん(お友達)がたくさんいらっしゃったのですね。お名前や年齢まで細かに記憶されていて凄いなと思いました。
そして、私も子供の頃一緒に遊んでいた友達を懐かしく思いました。
私には模型飛行機を作るのも難しいことなのに、1m程のグライダーが作れるなんて!さすがです。
昭和23年の「宇都宮復興祭」の賑わいは凄かったんですね。ジャングルジムが倒壊とは…。
現在、宇都宮城の跡地は宇都宮城址公園となっています。
春は桜やサツキが咲き誇って綺麗で、いろいろなイベントが開催されるお堀や櫓のある公園です。
昨年夏は宇都宮のキャラクターミヤリーちゃんと全国各地のゆるキャラたちが集まり盆踊り大会が開催されました。秋には餃子祭りも開催され大行列ができていますよ。
by ミャー (2014-05-09 01:14) 

宮崎 新

ヒビョウイン
どのような文字を書くのか知りませんでしたが、御本丸近くにあった掘のような池の様な所です。
此処に子供達は集まって釣りをしたものです。
竿は竹薮から切ったもので、糸と浮子と鈎は買い、ミミズを餌に釣ったものです。
しかし、殆どの子供には釣れず、私も釣れた覚えが無いくらいです。
駿も数回付いて来た事が有りましたが、釣れないのが嫌なのか、来なくなりました。
カエルを捕まえてタコ糸でゆわき、エビガニを狙った事も有りましたが
カエルの皮を剥くのは覚えましたけどね。
残酷な話でして、生きたカエルの指を割る様に引きますと、皮が剥け出すのです。
こんな事は当時の子供は皆やっていまして、駿も抵抗無く皮を剥いていましたし、自転車の空気入れでカエルを膨らませてもいました。
ヒビョウインはどうなっているのでしょうか?
病院と名がつくので、何やら薄気味悪さを感じたものです。
私は今旅行中てして、スペインのマドリードに滞在しています。
市内だけでなく近郊都市も行ってきまして、明日はセゴビヤヘ行く予定です。
こちらにPCを持ち込んだのですが、ネットは通じたのですが、メールの
サーバーが全て「オフライン」になっていて、メールが出来ないのです
返事が頂けるのはどうゆう訳か「ミャーさん」だけなので、つい、コメントの頻度が高くなってしまい申し訳なく思っています。
今まで「トレド」「アランフェス」「チンチョン」を訪ねました。
来週からはグラナダに移りまして、その後、コルドバを経て6/2に戻る予定です。
宜しくお付き合いください。
宮崎 新

by 宮崎 新 (2014-05-09 02:15) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
スペイン旅行いいですね♪私のお世話になってなっている方も先日スペイン旅行をなされていました。私はまだスペインに行ったことがないのでいつの日か行ってみたいです。
この週末、宇都宮の街なかでは「ミヤ・ギグ」という音楽イベントが開催され、いろいろなグループの皆さんがチック・コリア作曲の『スペイン』というジャズナンバーを演奏していましたよ。
さて、「ヒビョウイン」について調べてみましたが、城址西側にはどうやら明治33年に「避病院」(大正15年に丸の内病院へ改称)があり、その東西は宇都宮城址のお堀で囲まれていたようです。現在そのお堀は埋め立てられ宇都宮市役所の駐車場になっています。
先日お話した城址公園のお堀は、宇都宮城のお堀の一部を復元したものでカモがたまに泳いでいますよ。お盆には灯籠流しも行われます。
by ミャー (2014-05-11 23:12) 

宮崎 新

お返事有り難う御座います。
やはり「避病院」ですか。
後年、考えるに「避病院」ではと思っていたのです。
それからメールですが、何とかメールアドレスとパスワードを変更して復活しました。
今は、たまったしまったメールを友人達に送るのに忙しくしています。
11日間滞在したマドリードも明朝グラナダに向けて出発します。
グラナダには10日間滞在し、その後はコルドバへ移動し9日間滞在し、
マドリードに戻って1泊して帰路に付きます。
スペインは若者の失業率が50%と聞いていますが、町は人出でごった返していまして、不景気感は全く感じません。
しかし、スペインの方達はよく食べますね。
そして、どんどん太って行きます。
顔は小顔のママで居ながら、下半身は膨れるだけ膨れています。
後から見ますと、お尻と股が横に膨れるのです。
それがピタッとしたジーンズをはいているのですが、ドンナ裁断をするのか疑問を感じ、家内に尋ねましたら「伸びる生地を使っている」と聞き納得しました。
私達の泊まっているホテルの管理人の猫が見た事の無い猫なのです。
ジェームズ君と言う押す猫です。写真を載せてみます。
/Users/miyazakiarata/Desktop/IMG_0004.jpg
/Users/miyazakiarata/Desktop/IMG_0004 2.JPG
それではまた
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-05-12 02:11) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
メール復活してよかったですね。
美味しいスペイン料理が食べられてうらやましいです♪
旅行中は現地の美味しい物をたくさん食べてしまうので確かに太ってしまいがちですね。
ジェームズくんのお写真、残念ながらみることができませんでした。
毛色が変わっている猫さんなのでしょうか?
by ミャー (2014-05-14 00:43) 

宮崎 新

今、マドリッドからスペインのグラナダに来ています。
昨日は5時間かけてアルハンブラ宮殿を歩きました。
広大な敷地に、庭園、要塞、宮殿が配されていて、1492年にイスラムの王がこの城を離れる時に涙したそうですが、惜しまれたのでしょうね
カルロス五世の城館の前の広場で、昼食を取っている時に、猫が二匹寄って来たのです。
真っ黒のとキジ猫です。
イスラムでは犬や猫等の生き物を大切にしていますから、人を恐れませんが、アルハンブラには観光客が多く、それも殆どがイスラム教徒ではありませんから、余所で見る猫とは違って痩せていました。
残りのパイをあげたら食べていました。
猫達より先に鳩と雀が寄って来るのが先で、この鳥達は慣れたものでして、脚の近くまで寄って来て食べていました。
トルコ等では、朝食から「ハムやチーズ」を失敬しておいて、野良猫が居るとあげていましたが、ノラでも平気で膝の上に乗って来るので可愛かったですね。
トルコから直ぐ近くの、ロードス島へ渡り、昼食の時にもノラチャンが寄って来ましたが、手を出すと逃げたのです。
ロードス島はギリシャ領ですから、イスラムではないので、ノラ達も警戒心が強くて鼻白みました。
アルハンブラで見たスペインの猫は日本猫とそっくりでしたが、マドリッドのホテルのママの飼い猫は、写真が見られなかったそうで残念ですが、犬で言えばブルドックみたいな猫でした。
動かなかったのでぬいぐるみが置いてあるのかと思った程、おとなしい猫で、毎日合うのを楽しみにしたものです。
五月の31日に、マドリッドのこのホテルに一泊する予定になっていますから、この猫との再開を楽しみにしているのです。
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-05-16 22:57) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
アルハンブラ宮殿は綺麗でしょうね。
アルハンブラの猫ちゃんたちは日本猫にそっくりでしたか。
パイはきっと美味しかったことでしょう。
うちの猫たちもパンが大好きですよ♪
マドリッドのジェームズくんはブルドックみたいなお顔なんですね。
ペルシャ猫みたいな毛の長い種類なのでしょうか?
毛が短いのならエキゾチックショートヘアと呼ばれる種類の猫ちゃんかもしれませんね。
ペルシャとアメリカンショートヘアが交配された種類でくしゃっとしたお顔が愛らしく人気のようです。
ジェームズくんもきっと「待ってるにゃ~」と言っていると思いますよ(=^ ..^=)

by ミャー (2014-05-20 00:37) 

宮崎 新

ミャーさん
写真を送る方法は有りませんか?
普通のメールですと添付して簡単に送れるのですけど。
今、グラナダに居まして、今日は日帰りで「マラガ」へ言ってきました
マラガでは月曜日なので「ピカソ博物館」が休館でした。
カテドラルと要塞を廻るだけで終わりました。
スペインの地中海に面したマラガはリゾート地として発展していて、経済危機を心配される雰囲気はゼロでした。
22日の木曜日にはコルドバに移動します。
スペインを離れるのは、6/1の予定です。
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-05-20 05:21) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます。
ここ数日宇都宮は蒸し暑い日が続いています。
コメント欄の宮崎さんのGmailアドレスへ23日にメールを送ってみたのですが届きましたでしょうか?
こちらにエラーで戻ってきてはいないのですが、もしかしたら届かなかったのかもしれませんね。
by ミャー (2014-05-29 23:18) 

宮崎 新

ただいま、一ヶ月に渡るスペイン旅行中で、スペインを移動する度に、
ルールがおかしくなりまして、メールアドレスを少し変えて使っています。
chaingmaiをchiangmai に変えたのです。
すると、マドリッドとグラナダでは上手く通じたのですが、コルドバに
移ってからは、メールの受信も送信も出来なくなっているのです。
WiFIでネットは見られるのですが、メールは一切使えない状態です。
実は、明日の朝、マドリッドに移り、明後日に帰国便に乗ります。
ですから、コルドバでのメールのやり取りは諦めています。
アドレスの変更が「aとi」の入れ違いだけなので分かりにくいですよね
しかし、ミャーさんには送れるのが不思議です。
失礼しました
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-05-31 08:35) 

宮崎 新

ご無沙汰しています。
昨日、愚弟駿のアカデミー名誉賞受賞のニュースが流れました。
此の受賞で、駿の長編アニメ制作に対する野望も断ち切られましたね。
このままの姿で綺麗に引退する事を望んでいます。
マスコミで作り上げられた、ある種の虚像に惑わされた言動を気遣って来た者としては、元の駿に戻る事を期待出来る事になります。
心身の疲労のうち、心に関する負担は軽くなると思われます。
勿論、政策に関する身の方も勿論解放される訳です。
身内、特に唯一の兄としては、元の心易しい駿に戻る事を願っています
此の受賞を「引退の勲章」にして欲しいと思っています。
テレビアニメの「アルプスの少女ハイジ」や「母を訪ねて三千里」に
携わっていた頃の真摯な姿に戻って欲しいのです。
また、言い換えれば、ネタ切れの状態の身であり乍ら、大きな期待に添うべく苦心惨憺していては、碌なものは出来ませんね。
アニメの指命は「子供達に夢」を与える事でしょう。
しかし、同時に作品に込められた「否暴力」「対権力」はマスコミには
エコの代表の様に作り上げられて来ています。
作品に現れるものが=駿ではないのです。
元来が、虚弱体質で気の優しい男の子が、祭り上げられた立場での発言は影響力が増している事を自覚しなければ行けませんね。
その自覚が無い発言は、様々な反響や批判を浴びてしまいます。
こんな事が拡大する事が、兄としては一番避けたいのです。
ですから、冒頭の「このまま引退」する事を望んでいるのです。
今後は、アニメでも何でも良いですから、子供相手の仕事を選んで過ごして行って欲しいと考えています。
此れに比べると、兄としての私の生活は反省しなければなりませんね。
毎日、正確には一日置きにゴルフに興じ、楽しさ面白さだけを求める生活をしているのですから。
しかし、此れも人生、あれも人生ですね。
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-08-30 10:54) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます!ご無沙汰してます。お変わりありませんか?
駿監督のアカデミー名誉賞受賞すごいですね!
おめでとうございます♪
日本人がアカデミー名誉賞を受賞するのは、黒澤明監督以来2人目だそうですね。
宮崎駿監督のファンは世界中にたくさんいますので、長編ではなくても子供たちに夢を与えてくれる作品をこれからも作ってくださることを楽しみにしています♪

by ミャー (2014-09-01 22:45) 

宮崎 新

雀百迄踊り忘れずと言われますが、駿がアニメはとにかくとして、絵から離れた生活をするとは考えられません。
元々の絵好きが今の姿になった訳ですから。
噂では、毎日、二馬力のスタジオに出勤し、近くのジブリにも顔を出しているそうです。
長編アニメはやめたのではなく、ある意味では、やめざるを得なかったのです。
何しろ、一編の制作に5年も掛かる様になっていますから、年齢を考えると「無理」と言うのは分かった筈です。
昨日、NHKのプロフェッショナルで、「崖の上のポニョ」の制作過程を
克明に描いた番組をDVDで見させられました。
8年前だそうですが、かなり痛んでいますね。
それに比べると、私は変わっていないと思いました。
とにかく、今後の残された時間は、絵に張り付いたままで一生を終わるでしょうね。
番組では、20才迄生きられないと医者に言われたと言ってますが、そんな話は聞いた事が無く、多分、駿自身の思い込みでしょう。
駿の記憶はかなりいい加減な所が有り、母親が集中治療室で亡くなったと言ってましたが、普通の病室で亡くなったのです。
集中治療室で亡くなったのは父親の方なのです。
母や父が入院していたときも、仕事が忙しいと「数えるほど」しか見舞いにはきませんでしたから、間違って聞いたのでしょう。
駿は「自分で物語」を作ってしまう傾向が有り、その内に、それが事実だと記憶してしまう様なのです。
仕事(長編アニメ)から離れれば、制作で頭が一杯だった生活に終止符を打って、普通の昔の駿に戻ると思いますし、期待しているのです。
それではまた
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-09-05 18:23) 

宮崎 新

ご無沙汰しています。
と申しますのは、ノートパソコンの調子が悪くなってしまい、スタンド型の古いパソコンを使っています。
アドレスブックも見られない状態で困っているのです。
ところで、吾朗がNHKのアニメ「山賊の娘ローニャ」の監督してTVに
デビューすると、NHKの「あさいち」に出演して驚きました。
こちらでは、アニメは見る事が出来ませんので、遠くで心配している状態なのです。
駿もNHKで「未来少年コナン」で監督デビューしたので、親子で似たような歩みを見せています。
3DCGとかで、立体的なCGらしいのですが、此の世界も進歩している様ですね。
今、家内が下肢静脈瘤の手術と差し歯の治療の為に帰国していまして、帰りには「風立ちぬ」のDVDを買ってくるように頼んであります。
週の最後の長編アニメですし、零戦と聞けば、駿と二人で夢中なった少年期を思い出すのです。
週も大過なく引退出来てホッとしているのです。
ある有名映画監督のような最後に成って駄作を連発しなくて済んで
本当に良かったと思っています。
今迄、両親の墓参等、仕事にかまけて行った事の無かった週が、他の二人の弟達と墓参に行ったと聞いて、ヤット世間並みの男になったと喜んでいます。
これからの残りの人生を日本のアニメ界のために尽力してくれる事を願っています。
それではまた
宮崎 新
by 宮崎 新 (2014-10-20 16:50) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます!
ご無沙汰しています。
パソコンのご機嫌が悪いと困ってしまいますね。
吾朗監督の「山賊の娘ローニャ」は話題になっていてNHKでは特集番組も放送されていましたよ。
我が家ではBSを見ることができないので残念です(^_^;)
奥様が手術のため帰国なさっているとのことで、1日も早く全快されますようお祈り申し上げます。
by ミャー (2014-10-22 00:30) 

宮崎 新

大変ご無沙汰しました。
久しぶりに「ミヤネコ」を開きましたら、ミャーさんからのお返事が載っていました。
それによりますと、家内が手術のために帰国した頃ですから、昨年の11月の初旬になります。
家内の、下肢の静脈瘤の手術は成功し、すっかりきれいになりました。
今まではみっともなくてスカートをはきたがらなかったのですが、今ではスカート姿がよみがえっています。
昨年の11月と言いますと、チェンマイのゴルフクラブで、初めての「ジャパンコンペ」の第二回を開催した頃です。
今では既に五回を終わり、大好評を得て日本人同士の交流が盛んになって来ています。
それまでは、日本人同士では挨拶する程度で、名前もお互いに知らない人が殆どでしたが、今では見知らぬ方は無くなり、ゴルフ場だけでなく
10人、15人と固まって食事に出かけたりしています。
今年の一月に私の会社の役員をしていた男性が亡くなり、メールアドレスを変えていたために連絡がつかず、ジブリに問い合わせたのです。
ジブリも困ったようで、パリに住む長女に連絡して、パリからの連絡で
訃報を知ったのでした。
ジブリの中で、私のメールアドレスを知っている方は居るのですが、メールを受けた総務部の人は知らなかった様です。
駿はメールをしませんし、携帯電話さえ持っていないのです。
時代遅れも良いとこで、やたらと権力に反抗する事が男らしいと考えているようで、文明の利器もある意味「権力」と感じている様です。
しかし、先日、パリのイスラムに対する風刺に対し、「人の信じている物を風刺の対象にするのは良くない」と久しぶりに私と同じ意見を言っていましたが、あれは評価してやるつもりです。
うかつな発言が、世間に誤解を生ませますから新地用にしてもらいたいと言うのが私の本音なのです。
今回は、駿に関係のない話題ばかりですいませんね。
お元気にお過ごし下さい
宮崎 新

by 宮崎 新 (2015-03-17 20:15) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます!
ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです。
宇都宮では城址公園の河津桜が咲き春らしくなってきました。
今日は雨でしたが明日は晴れて17℃くらいまで気温が上がり
ぽかぽか陽気になりそうです。

奥様の手術の成功よかったです。
女性はお洒落をすると気分が明るくなるものなんですよ。
春はお洒落の季節です♪

by ミャー (2015-03-19 23:30) 

宮崎 新

ミャーさん
普段は駿に関するブログは見ないですが、ちょっと見たものにかなりの
誤解が有るようなので、本当の所を言わせてもらいます。
戦争中は飛行機製作で、たしかに、闇物資等の入手が容易になっていて一般の人に比べれば豊(?)な生活だったでしょう。
おひつにご飯を入れて食べていたと驚いている人が居ましたが、当時はおひつにご飯を入れるのは常識でした。
その方は、おひつの中は白米と想像しての事なのでしょう。
白米だった覚えは殆ど無く、大麦、大豆、サツマイモ等の混ぜご飯でしたね。
何時も満腹だった訳ではなく、農家出身の子がサツマイモを食べているのを羨ましがるほどでした。
当時のサツマイモは、配給制で、オキナワ、農林一号が主で、黄色の
サツマイモは「金時」と言って珍重されていました。
今は見かけませんが「タイハク」と言った、身が白いのが好きでした
着る物は、母が古いセーターをほどいて編み直してくれていて、ちょっとした模様アミになっていまして、知らない女性から、よく、
見せてと言われ、セーターの裏側を見ていましたね。
ハンズボン等は父の古い背広を縫い直したものを履かされていました
東武線の土手をソリらしきもので滑る事が流行り、一日で縫いたての
すべ本に穴をあけてしまい、母にこっぴどく叱られました。
その点、駿はおとなしい子なので、図便に穴をあけるような事は無く
何時も絵を描いていましたね。
庭ではニワトリを放し飼いにしていて、玉子を産んだと言う鳴き声がすると飛んで取りに行ったものです。
土手際には小さな畑を作り、茄子、キュウリ、トマト、カボチャや
つまみ菜等を植えていました。
当時の宇都宮の住民と変るとこは無く、格別裕福な暮らしをして居たと言われるのが心外ですね。
もっとも、外地から引き上げて来た方達は苦労していましたね。
肉類が買えるようになったのは、昭和23年頃からで、面白いのは、
当時一番高価なのが「鶏肉」で、次いで「豚肉」、一番安かったのが
「牛肉」でした。
近所に「はまの」と言う鳥屋さんが在って、良く買いに行かされました。
と言うのは、母が昭和22年頃から、脊椎カリエスで入退院を繰り返すようになり(隣のトトロと同じです)、家に居る時は栄養を取る為に
毎日玉子を食べさせられていました。(苦痛の様でした)
飼っていた鶏を絞めて、鶏鍋等にすると、私は全く食が進みませんでしたが、駿以下の弟達は父母の言葉に騙されて食べていました。
昭和25年4月19日に東京の杉並の永福町に戻った時に、肉屋がご用聞きに来て「ソーセージ」が自由に買える事を知った父が、大量にに買い込み、私も欲をかいて食べ好きでしまい、数年間はソーセージを食べられませんでした。
こんな思いでは幾らでもありますが、切りがありませんからこの辺で
失礼します
宮崎 新
by 宮崎 新 (2015-03-22 12:19) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます!
亡き父も戦後すぐの生まれだったので、食べる物もなかなか手に入らず苦労したようです。
サツマイモと鶏肉には良い思い出がなかったようで、嫌いになってしまい大人になってからは食べませんでした。
宇都宮では今日ソメイヨシノの開花が観測されましたよ。
東京では桜が満開のようです♪


by ミャー (2015-03-30 23:42) 

宮崎 新

ご無沙汰しています
昨晩のニュースで、駿がとんでもないことを仕出かした事を知りました。
すんなり引退してくれれば、万々歳だったのですが、とうとう、政治的な
グループに担ぎ出されてしまいました。
単なる、人寄せパンダとは気が付かずに。
正直な男なので、思ったことや感じたことを口にしてしまいますが、
現在の自分の立場が分かっていないのですね。

今私どもは、ローマに来ています。
1日から一ヶ月のイタリア旅行です。
昨年は同じ五月にスペインに逃げ出していました。
これは、今住んでいるタイのチェンマイと言う町の暑さから逃げ出しているのです。
ローマ、ナポリ、フィレンツェに各10日間ずつの予定です。
明後日の11日にはローマを去り、ナポリに移動します。
さすがのローマも、回を重ねますと感動は薄くなってしまい、
今回はガイドブックにも載らないような穴場みたいなところを探しては
歩き回っています。
例えば、ローマのピラミッドってご存知でしょうか?
30mくらいですが、白大理石で2000年以上も輝いていました。
また、ローマの四大大聖堂も、大地版目のサンピエトロ大聖堂は
誰でも行きますが、今回は残りの三箇所も訪ねてみました。
それぞれが、独特の素晴らしさを持っていまして、観光客も少なく
ゆっくりと鑑賞できました。
こんな時に、駿のニュースが飛び込んできたので、がっかりしました。
どうも、人間は退け時が難しく出来ているようですね。
ショックを受けたままに。
宮崎 新









by 宮崎 新 (2015-05-10 04:35) 

ミャー

宮崎 新様、コメントありがとうございます!
イタリア旅行いいですね♪
学生時代、ミラノ・フィレンツェ・ローマへ旅行に行ったことはありますが、短期間の滞在だったので有名な場所をめぐっただけでした。
なのでローマのピラミッドはみたことがありません。
白の大理石でできているなんて豪華ですね。
先週日本各地で気温が30℃を越え、早めの夏がやってきていましたが今週は例年並みで過ごしやすくなっています。
チェンマイは5月頃が一番暑いんですね。
駿監督は人気者ですから、いろいろな所からお声もかかるでしょうし何をしてもニュースになってしまい大変ですね(^_^;)

by ミャー (2015-05-22 00:05) 

金子 元治

ぶしつけながら書かせて頂きます。私は昭和16年生まれで鹿沼在住でした、幼少のおり我が家の離れを宮崎さんという方に貸しており中島飛行機関係の方と記憶しております。近所の年寄りに宮崎駿さんの関係者と聞いたことがあります。もしかして宮崎駿さんの伯父さんかと思っています。幼い記憶で奥様は都会的なきれいな方でした。端の欠けた飛行機の風防ガラスを貰って木にこすると良い匂いがしたことを覚えています。鹿沼の場所は中田町で大分傷みましたが離れは残っています。
ブログを見て懐かしく、記憶が正しかったか確かめてみたくなりました。もし、宮崎 新さんにご連絡の機会がありましたらお尋ね頂けたら嬉しく思います。 勝手なことを書きまして申し訳ありませんでした。
by 金子 元治 (2015-07-22 15:45) 

ミャー

金子 元治様、コメントありがとうございます!
以前宮崎新様からいただいたコメントによりますと、鹿沼に避難した際のお住まい(別荘)は、御殿山病院の所に建っていたと伺っております。
中田町は鹿沼東小学校や福田屋さんの西側辺りで、黒川と御殿山の間のようですので、工場があった場所から近いですね。
私から特にご連絡はしておりませんが、時折、宮崎新様にはこちらのページにコメントをいただいており、金子様のコメントをみた際、お返事をくださるかもしれません。
お力になれず申し訳ありませんでした。

by ミャー (2015-07-26 23:33) 

宮崎新

ご無沙汰しています。
金子元治さんのメールを拝見しました。
多分、親戚の者がお借りしていたのだと推量しています。
私どもの仮住まいは、今宮神社の左手の高台に在りました。
この別荘は「山本・・」という醸造関係の方から譲り受けたと聞いています。
7歳ころの記憶ですから、山本何某というのは間違っているかもしれません。
何しろ、現存している私より年長の方は皆無なので、確かめようもありません。
中島飛行機の下請けとして、航空機の一部を製造していたことは確かで、風防の防弾ガラスのむかけらをこすって、良い匂いをかいだのも、良くやったことです。
金子さんとは、何処かで繋がって入るような気がしますね。
今日は、9月10日ですが、台風18号による豪雨の災害をTVのニュースで報じているのは、何か因縁を感じます。
 
現在、宇都宮在住で鹿沼出身の「西村寛さん」と言う方とメールで交信していますが、私が一日だけ登校した小学校が「中央小学校」で、私が30年ほどの先輩になるようです。
今宮神社と言う名前も、彼からのメールと写真で思い出したのです。
別送の隣にあったお寺が宝蔵寺と言う名前だったことや、この寺に疎開して来ていた人との交流も思い出しました。
鹿沼市の現在の写真もたくさん送って下さいましたが、全く見覚えも無く
今宮神社だけでした。
当時の私のミー行動範囲は、別荘内に限られて居ましたから、街中へ
出かけたとしても、薄い記憶の中に埋没しています。
と言う訳で、金子さんのお宅の別荘と宮崎駿は残念ながら関係ないようですね。
宮崎 新

by 宮崎新 (2015-09-10 12:24) 

金子元治

宮崎 新さまのメール拝読しました。過日姉にも聞いたところ我が家の離れに居た宮崎さんにはくに子さんという女の子がおり、一緒に御殿山の別荘に遊びに連れて行ってもらったことがあるそうです。御殿山の別荘跡は現在御殿山病院となっていますが庭園の一部は残っている様です。子供の頃良い匂いのする風防ガラスを持っていることは他の子供たちの羨望の的でした。
御殿山の別荘は今宮神社の北側にありその西側に掘り跡の沼があって冬はスケートが出来ました。中央小も建変わましたが場所はおなじところでお住まいの別荘から徒歩10分ぐらいです。
いろいろ懐かしい思い出でがよみがえりました。また何か思い出すことがありましたらお聞かせください、有り難うございました。
by 金子元治 (2015-09-10 17:10) 

宮崎 新

前回、メールをした後に気がついたのですが、もしかして、伯父夫婦が
別荘に移り住む前に、お借りしていたのではと思いついたのです。
伯父は私達の父の兄に当たりますが、たしかに、伯母はおっしゃるとおり都会的な方でした。
金子さんの新着のメールを拝見して、間違いないことが分かりました。
伯父夫妻には、当時、邦子、道子の二人の女の子が居ましたから、間違いありませんね。
二人とも、亭主を亡くしましたが、元気に過ごしています。
伯父はその後、肺結核を発症し、別荘で療養していました。
金子さんは、昭和16年生まれですから、駿と同じですが、学年は駿の方が、早生まれですから一年上になると思われます。

金子さんにお聞きしたいのですが、別荘の北側の細い道を隔てて、お寺
があったのですが、いま、google mapで探してもありません。
この寺に疎開してきていた、私より一歳上の男の子と遊んで記憶がある
のです。
なにしろ、鹿沼は、昭和20年8月の宇都宮大空襲で一時的に移り住んだ
地で、滞在したのは約半年間です。
いま、西村寛さんという方と目へーるの交換をしていますが、彼は私の娘世代なのです。
その点、金子さんは私が昭和13年生まれですから、三歳しか違いませんので、親しみを感じます。
鹿沼の半年間の生活は、私の子供時代の思い出の最高の期間なのです。
学校には行かず、別荘内の池、小川、を相手に、釣りと昆虫採集に遊びまわっていましたから。
駿は当時は4歳半で、宇都宮に戻ったのが5歳でしたから、今では鹿沼の記憶は全く抜け落ちているようです。
私が語る鹿沼の楽しさを何度も聞いて、それとなく、自分なりに、鹿沼での記憶を作り上げてはいるようです。
また、何かお聞かせ下さい
宮崎 新
by 宮崎 新 (2015-09-11 11:49) 

金子元治

宮崎 新様 またミャー様のブロフをお借りしてお便りします。
おかげさまで周囲の話や私の不確かな記憶が確かなものになりました。
私も昭和16年の早生まれです。宇都宮大空襲の日は鹿沼にも焼夷弾が落とされ怖かった思い出があります。お尋ねのお寺は4~500m北にある宝蔵寺と思われます。宝蔵寺には東京からの疎開児が来ていました、その中に知り合いの男の子がいて我が家に来たことがありました。
子供の頃御殿山周辺はちょっと遠征した冒険の地で大いに遊んだところでした。御陰さまで当時のいろいろなことを思い出して懐かしさに浸っております。また当時の思い出などお聞かせ頂ければ幸いです。
金子元治
by 金子元治 (2015-09-11 23:43) 

宮崎 新

住んで。いた別荘(当時は親戚一同で、この名で呼んでいました)の近の
お寺と言うと、google mapで見る限り「宝蔵寺」しかありませんが、
別荘の北側の小道を隔てただけの所にあった記憶しかありません。
7歳の子供の足では、今宮神社からでも別荘はそんな近くではありませんでしたから、4~500mも離れた宝蔵寺まで遊びに行ったとは考えられないのです。

宇都宮で空襲を受けて、たまたま泊まっていた、母の弟である叔父の乗ってきていた小型トラックで鹿沼に向けて逃げたのです。
しかし、西に向かって行くほど、道の左右は焼夷弾が落とされ、あちこちで火の手が上がっていました。
要するに、宇都宮の行きがけの駄賃に鹿沼も爆撃したようなのですが、
私達は、爆撃進路に沿って逃げていたわけです。
叔父か、これはまづいと、途中の庄屋さんで「熊倉さん」と言うお宅に、
逃げ込んだのです。
翌朝は梅雨が明けたようで、抜けるような晴天でした。
私より一歳くらい年下の女の子が居まして、畑に案内してくれて、トマトとか胡瓜をもいでくれたのを覚えています。
朝から、宇都宮の様子を見に行っていた、父と叔父が昼過ぎに戻り、宇都宮の状況を伝えてくれました。
松が峰の家は焼け残り、焼け出された人達がたくさん逃げ込んでいたと言っていました。
私達は、宇都宮に戻ることなく、そのまま、鹿沼の別荘に移り住んだのです。
そこには、伯父の家族をはじめ、3月10日の東京大空襲で逃げてきた
親戚も何家族も同居していました。
私達は、母屋と畑を隔てた離れに住み着いたのです。
六畳二間の狭い離、れでしたが、翌朝目覚めると、家の直ぐ前の木に
油蝉がすうひきいるのに驚きまして、それからは、虫取りに夢中になり
一人で走り回っていました。
駿は4歳半ですから、飛び回ることは出来ませんでしたから、母のへばりついていましたね。
とにかく、宇都宮に戻るまでの約半年間は天国でした。
子供の頃の記憶の中で、鹿沼の半年ほど心豊かな思いではありません
終戦のラジオ放送もこの別荘で聴きました。
戦争に負けたことは判りましたが、それが今後どんな影響を与えるかは
理解できるはずもなく、毎日とぴ゛回っていました。
宇都宮に戻り、元のクラスに戻ったのですが、何人かのクラスメイトが
空襲で亡くなっていました。
学校をはじめ家の周りは一面の焼け跡で、日光の男体山が良く見えましたね。
金子さんのメールで、色々と思い出させていただき、感謝しています。
しかし、駿と同じ昭和16年の早生まれなのに、良く覚えていらっしゃいますね。
駿は昔のことは直ぐに忘れてしまうたちらしく、作品つくりでも、前作の絵を描けというと、描けないと言ってました。
前の作品を全て無にしないと、新しい絵が描けないらしいですね。
覚えていませんが、駿は鹿沼でも絵を描いていたのでと思います。
また、何か思い出されたらよろしくお願いします。

ミャーさん
ミヤネコのブログのお陰で、金子さんと言う方と連絡が取れるようになって、喜んでいました。
ご迷惑にならなければと心配しています
宮崎 新
by 宮崎 新 (2015-09-12 17:10) 

金子元治

みやねこ探偵団ミャーさま
ミャーさまのお陰で思いがけずにいろいろな記憶がよみがえりました。
だんだんコメントが個人的になってきてしまいました。そこで私のアドレスを宮崎さまにご連絡頂けるとありがたいと思いますが如何でしょうか? ブログへのコメントもさせて頂きますが直接にご連絡が出来るとありがたいと望んでいます。
よろしくお願いいたします。
金子元治
by 金子元治 (2015-09-12 22:34) 

宮崎新

ミャーさん
金子さ。んのご意見に賛成です。
私のメールアドレスを教えて差し上げて下さい。
交信の報告はミャーさんにすることをお約束します。
取り急ぎ用件のみ
by 宮崎新 (2015-09-15 08:59) 

ミャー

宮崎様、金子様、コメントありがとうございます!
お二人の橋渡しとなることができ嬉しく思います♪
通常は個人情報ということで控えさせていただいておりますが、お二人とものご希望ということで、金子様のアドレスを宮崎様へお送りいたしましたよ。ご確認くださいね(=^ ..^=)
by ミャー (2015-09-15 21:25) 

金子元治

ミャー様 
勝手なお願いで申し訳ありませんでした。
ミャーさんのお陰で同じ時代を過ごした世代の方と知り合えました。
昔のことを思い出してなつかしがる年になってしまったかと苦笑を禁じ得ません。
有り難うございました。
by 金子元治 (2015-09-15 22:45) 

宮崎新

ミャーさん
その後、金子さんとはメールの交換をしています。
お話を聞いていましたら、なんと、彼は駿と同級生に当たります。
伯父の家族が一時、金子宅の離れをお借りしていたようなのです。
彼は、伯父の長女の名前まで覚えていましたから、間違いありません。
すばらしい出会いだと思いませんか?
こんな出会いが出来ましたのは、ミャーさんのお陰と感謝しています。
取り急ぎご報告まで
by 宮崎新 (2015-09-29 13:46) 

ミャー

宮崎様、金子様、コメントありがとうございます。
無事メールの交換ができたようでよかったです。
70年の時を越えて素敵な出会いですね。
お役に立ててとても嬉しいです♪
by ミャー (2015-10-02 22:42) 

金子元治

宮崎さんと終戦直後の宇都宮や鹿沼の様子から始まり、読書のこと、
ラグビーワールドカップの日本の活躍、最近のトルコ情勢まで多技にわたりメールのやり取りを楽しんでいます。
ありがとうございました。
by 金子元治 (2015-10-14 17:56) 

ミャー

金子様、コメントありがとうございます!
宮崎様とのメールのやり取りを楽しんでいらっしゃるとのことで嬉しく思います。
先週は鹿沼で彫刻屋台が練り歩く「ぶっつけ秋祭り」が開催され賑わっていたようです。宇都宮では今週は「宇都宮城址まつり」や自転車のレース「ジャパンカップ」が開催され賑わっていました。
ラグビーワールドカップでは日本代表が3勝し大活躍してくれましたが、今回のジャパンカップでも日本人選手が活躍してくれましたよ♪

by ミャー (2015-10-19 00:05) 

宮崎 新

ご無沙汰しています
この度、甥の宮崎吾朗の作品「山賊の娘ローニャ」がエミー賞を受賞したとのニュースに接しまして、嬉しく思っています。
日本ではこの作品の評価が低いのか、余り話題にもなりませんでしたので、心配していたのです。

吾朗は両親の遺伝子を受けついで、同じアニメの世界に入ってしまいましたが、真面目過ぎるくらい真面目で、面白みに掛ける点は仕方の無いところで、一頃の駿のような面白みが出せるようになればと思っています。

血液型で気質を判断することに対しては賛否がありますが、私はある程度の気質は血液型で偏ると信じています。
私達四人兄弟は、B,O,O,Bで、私はBで妻はOです。
駿はOでカミさんはAです。
三男はOで、カミさんはBで、四男は夫婦ともBです。
要するに8人中、Bが4人、Oが3人、Aが1人です。
ですから、我子や甥姪は殆どがBとOで、Aは吾朗だけです。
こんな連中が盆暮れに我家に集まりますと、その賑やかなことは比類なく、只、駿の妻と吾朗だけが大人しくしているのです。
見渡していて、心配になるくらい寡黙になってしまいます。

これらを見ても、血液型は気質として現れていると考えています。
しかし、賑やかなのが良いわけでもなく、寡黙も然りです。
こんな大人しい吾朗の作品が評価されたのは嬉しいてことなのです。
ジックリと作り上げる正確は将にA型の本領発揮と言えますね。
チョッと嬉しかったのでお裾分けです。
宮崎 新

by 宮崎 新 (2016-04-07 11:34) 

ミャー

宮崎新様、コメントありがとうございます!
宮崎吾朗監督の作品「山賊の娘ローニャ」のエミー賞受賞おめでとうございます♪嬉しいお知らせですね。
血液型は確かに気質に現れると思います。
吾朗監督はA型だったんですね。
先日、鹿沼市の千手山公園へお花見に行きました。
帰りに御殿山公園の脇を通った際、車窓からみえた野球場の桜が綺麗でしたよ。

by ミャー (2016-04-10 23:51) 

宮崎新

ミャーさんご無沙汰しています。
恒例になった、五月のチェンマイ脱出の旅が今年も実行されています。
昨年のイタリア、一昨年のスペイン、その前年のイスタンブールに続き
今年はポルトガルに来ています。
今日5/11はリスボンを去り、コインブラに移動する日です。
天候が急変し、数日間は雨風に悩まされましたが、ヨーロッパ大陸の
最西端のロカ岬では奇跡的に快晴になりました。
チェンマイの40度から、リスボンは15度ですから、この気温差で風邪を
ひいたようです。
ポルトガル人は同じラテン系といわれるイタリア、スペイン、フランスに
比べ、ちょっと、内向的な感じを受けます。
私達は例によって安宿ですから、ガイドブックでは危険といわれている
移民が多いと言われるバイシャ地区にあります。
窓の下は狭い上り坂ですが、この狭い道をトラムが走っています。
このトラムは28番で、殆んど観光客が乗っています。
狭くて急な坂道を良く登れると思います。
ととにかく、寒くて、今日移動するコインブラの天候が気になります。
バス移動ですから、列車と違って重いスーツケースを持ち上げる事も
なく、楽なものです。
リスボンはパン、ハム、チーズ、ワインが美味しくて安いので嬉しい
ですね。
まだ、三週間も旅は続きます。
又、連絡します

by 宮崎新 (2016-05-11 16:59) 

ミャー

宮崎新様、コメントありがとうございます!
今年は、ポルトガルへご旅行なんですね。
チェンマイの40℃からリスボンの15℃では体もびっくりしてしまいますね(^-^;
最近の宇都宮の最高気温は25℃前後と過ごしやすく新緑も綺麗です。我が家の猫たちものびーっと心地よさそうにしていますよ。
お体に気を付けてご旅行をお楽しみくださいね♪
by ミャー (2016-05-16 00:16) 

金子元治

ご無沙汰しました。今日悲しい知らせを受けてショックを感じてます。
ポルトガル旅行中に宮崎新さんが亡くなりました。
旅行中の様子をメールで頂いてましたがコインブラで風邪を引いたが全快したので活動開始と5月15日の町の様子や、夜にはファドを聞きにいったと写真を送ってくれました。
その後連絡がないので心配してましたが無事を信じてメールをしました。
奥様から15日に亡くなったとメールを頂きました。
いろいろ楽しい晩年を過ごしたので悔いはなく逝った筈と奥様はおっしゃっておりました。
ミャーさんのおかげでメールの上だけですが共通の話題を持つ方と知り合えてまだまだ話が弾むと思っていたのに残念でなりません。
ご冥福を祈るばかりです。
by 金子元治 (2016-06-15 23:05) 

ミャー

金子元治様、コメントありがとうございます。
突然の悲しいお知らせで驚きました。
旅行中に風邪を引いて体調を崩されていたのは伺っていましたが
まさかこんなことになるなんて…
昔のお話や旅行のお話などいつも楽しみにしていました。
本当に残念です。
ご冥福をお祈りいたします。
金子様もお体を大切になさってくださいね。

by ミャー (2016-06-17 01:21) 

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